南国通信 楽園からのらくがき 豪海倶楽部  



ヨーイドン!

スタートラインについた選手たちが日本語の号令の下に一斉に飛び出す。場内アナウンスでは、コンゴウリレー(混合リレー)、レンゴウリレー(連合リレー)、などと言った種目の案内が流れている。ここは、ミクロネシアのチューク(トラック)諸島。グランドでは昔ながらの日本の運動会そのままに、現地の人達によってスポーツゲームが行なわれている。10月中旬、モエン本島で行なわれた全島大会の一コマである。

ゴールに駆け込む選手達は、競技の係員によって、イットウ(1等)、ニトウ(2等)、サントウ(3等)と呼ばれ、小旗をもたされて表彰台に足を運んでいる。そこでセンシュ(選手)が手にするものは、ショウヒン(賞品)だったり、ショウキン(賞金)だったりする。そして彼らはこのスポーツの祭典を、『ウンドウカイ』と呼んでいる。

そこには日本人の姿はまったく見えないし、ましてや日本人主催による催しでもない。しかし目に映る光景は日本の運動会そのものである。これは、いったい何処から来たものなのか・・・?

・・・・・それは遠く、日本の統治時代にまでさかのぼる。

日本時代の中心だったデュブロン島(夏島)には、大正天皇の即位を記念して、大きな運動公園が造営された。島には街が開け、学校や役所、数多くの商店や会社などがあり、後年には海軍の基地が設けられ沢山の兵隊や軍艦が島に溢れていたのである。それらの団体や部隊、軍艦などでは、士気を高めたり、交流を図るため盛んにスポーツが奨励された。運動会もその一環で、そしてそれはチュークの人達の間でも例外ではなかった。学校や村々など、島を挙げての大運動会が毎年、日本人の指導の下に行なわれていたのである。

当時、各島々は5つの地区に分けられ、1組(イチクミ)、2組(ニクミ)、3組(サンクミ)・・・・・、と呼ばれていた。この組み分けは今もそのまま残っており、島を挙げての催し事や、地区分けの基礎となっている。そして戦後60年経った今も尚、島々の運動会は、この区域によってチームが編成されるのである。チームの応援旗には、大きく、『ICHIKUMI』 『NIKUMI』 と染め抜いてあり、ハチマキ(チューク語)にも同じく、『ICHIKUMI』 『NIKUMI』 と書かれている。

センシュ カケアシ レンシュウ ガンバレ オーエン など、運動会関連の言葉も数多く残っており、グランドでよく耳にする言葉である。オーエンもとても賑やかで、興に入って来ると、グランドのそこかしこで激しいオーエン合戦が始まる。『ガーンバレ〜♪♪、ガンバーレ〜♪♪、・・・・・ ♪♪』と言った応援歌が、あちこちのチームから聞こえてくる。小錦バリに太ったオバサンが選手団の前に出て、狂ったように踊りだす。。。それを合図に、あちこちのチームの前に、負けじとまたオバサンや若者が即興の歌や踊りでグランドを盛り上げる。そうなるともう、競技はそっちのけでグランド内は歓声で騒然となる。

グランドのまわりには、沢山の出店が並び、学校や官庁は殆どが休みとなり、島中のポリスが総動員され、交通整理や警備に当たっている。子供から大人まで、老若男女、正に島を挙げて運動会を楽しむ事となる。

丁度、この運動会が行なわれていた10月のある日、日本から外務省を通じてとある団体が到着した。この団体は州知事の表敬訪問をはじめ、現地政府との懇談をするべく、日本の大使館を通じて州政府にアポイントメントを取っていた。ところが、団体が空港に到着する直前、『本日の州政府訪問は見合わせて欲しい』との連絡が入ってきた。理由がふるっている。『州知事はじめ、政府の要人は全てウンドウカイに出席しているため、お会いできない』と言うものであった。『ウンドウカイ』は、政府間レベルの用件を反故(ほご)に出来るほど彼らにとっては重要なものなのである。

各島々では、何ヶ月も前から選手を選考し、選手に選ばれた戦士達は、仕事も家事もほったらかしで、ひたすらレンシュウに励む。島々にはろくなグランドも無いので、ちょっとした広場や道路などがそのレンシュウの場となる。月夜の夜ともなれば夜遅くまで道路でレンシュウに励む女や男達を見かける。期日まで数週間ともなると、各チームは合宿に突入する。島の人達は選手のために、合宿の場所や、食べ物、飲み物などを、競って提供する。『ウンドウカイ』は島を挙げてのお祭りで、一大イベントなのだ。そしてこの模様は島のラジオ局を通してトラック諸島全域に実況中継される。

大会当日の早朝、各島々から集まってきた選手団は、モエン島の港に集結し、それぞれのチームが州旗や団旗をひるがえし、グランドまでの約1マイルの道のりを大声を張り上げて、応援歌を歌いながら行進してゆく。彼ら選手団の熱気は行き交う人達を巻き込みその興奮は次第に島中に広がってゆく。

種目は、日本時代の伝統的な種目や、短・中・長距離、各種リレーなどの陸上競技種目がメーンで、一般男子による『椰子の実割り競争』や、女性による、椰子の葉っぱを使った『バスケット編み競争』などローカル色豊かな種目もいくつか用意されている。中でも彼らの最も興味をそそる種目はリレー競技だ。小さい子供達から、女、男、まで、ありとあらゆるリレーが次から次へと展開されてゆく。

そして、雨や嵐もなんのその、彼らのウンドウカイは必ず『雨天決行』である。彼らはむしろ、悪天候や予期せぬアクシデントなどから来る予想外なレース展開を最も好む。グランドは雨でドロドロ、それでもリレーは決行される。先頭を走っている選手が足を滑らせて転倒する。強者の足を引っ張る。だれが勝つか負けるか、全く予想もつかない。そうなるともうグランド内はヤンヤの喝采である。ルールを最重要視し、比較的紳士的に遂行される学校のウンドウカイとは赴きを異にする、この破天荒な争いの『ウンドウカイ』こそが彼らの本領発揮の場なのである。

地理上の発見と言われた大航海時代、チュークの環礁内に入った外国船は度々現地人の襲撃を受けてきた。 その悪名は、ヨーロッパの航海者達の間では長く言い伝えられており、その後長い間、ヨーロッパ人の上陸や入港を阻んできた。 明治の半ば、一人の日本人が貿易会社の社員としてモエン島に上陸する。 彼は現地人社会に溶け込むべく、鉄砲と日本刀で武装し先陣を切って部族間闘争の輪の中に飛び込んでいった。 文明人が上陸するほんの100年程前まで、彼らは日本の戦国時代同様、部族間で戦争を繰り広げていた人達だったのである。

平和な社会になった今、彼らの闘争民族の血をぶつけるものはスポーツを置いて他、何も無い。闘争のはけ口を失った彼らが日本時代に遭遇した運動会は恰好の彼らの戦いの姿だったのかもしれない。パプアニューギニアに今も残るシングシングの祭り。彼らもまた、闘争民族の血を発散させるために、この戦闘のダンスを今に伝えている。

『ウンドウカイ』をかくも熱狂的な闘争の場とする彼らの戦いの根源は、彼ら自身の民族の血から来るものであろう。彼らの闘争本能を存分に受け入れ、発散させる『ウンドウカイ』は、島社会を平和に保つための潤滑油ともなっている。文明人達によって両の腕をもがれた彼らにとって、『ウンドウカイ』はむしろ彼らの血を受け継ぐ恰好のお祭りだとも言えよう。

ガンバレ、ガンバレ! チュークの戦士達!

闘争民族の血を受け継ぐ祭り・『ウンドウカイ』
チューク諸島

末永卓幸


末永
末永 卓幸

1949年1月生まれ
長崎県対馬出身

立正大学地理学科卒業後、日本観光専門学校に入学・卒業。在学中は地理教材の収集と趣味を兼ねて日本各地を旅する。1973年、友人と4人でチューク諸島を1ヶ月間旅行する。1978年チューク諸島の自然に魅せられ移住。現地旅行会社を設立。現在に至る。観光、ダイビング、フィッシング、各種取材コーディネート、等。チュークに関しては何でもお任せ!現地法人:『トラックオーシャンサービス』のオーナー。

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